AJAJ講話会 青木英夫さん

開催日:2014年2月20日
場 所:国際文化会館

この世知辛い世の中にもかかわらず、生粋の「自由人」と言われる人たちが少なからず居る。今回で3回目となるAJAJ講話会のストーリー・テラーの青木英夫サンも、真の自由人と言って良い。

AJAJ講話会 青木英夫さん青木サンは、昭和8年(1933年)に東京の杉並区に生まれた。いわゆる「昭和一桁世代」である。慶応大学に進学し、体育会航空部のキャプテンを務めた。グライダーの操縦を体験したのはこの頃。セカンダリー、プライマリー、ソアラーなどと言っても、門外漢の我々にはピンとこないが、いずれも当時在ったグライダーのクラス分けで、順序を踏んで上級クラスへ上がってゆくわけだ。たとえ高度は低くても、大空へ舞い上がる気持ち良さは何物にも代え難いもの。後に青木サンが航空機へのめり込む素地は、すでにこの頃から出来上がっていたのだろう。

大学卒業後、青木サンは父親の勧めで2年間だけ会社勤めをする。本人は性格的にホワイトカラーなど全く自分には合わないことは分かっていたという。人生経験を積む上で、この数年間の会社勤めは非常に大きかったそうである。その中で、青木サンは人生で初めて自分のクルマを買う。1940年型のシヴォレーの4ドア・セダンである。駐留アメリカ軍の軍人が使っていたという大(!)古車で父親からは「家の前にあんな汚いクルマを停めるな!」と小言を賜るほどの程度だったが、若い青木サンは父親の苦言も意に介さず、大いに青春を謳歌したそうだ。

1950年代初め、ホワイトカラーに見切りを付け、自ら起業人となった青木サンが始めたのは、ガソリン・スタンドと自動車整備工場だった。ガソリン・スタンドの経営は、日本が本格的なモータリゼーションのスタートラインに着いたころだったから、まさに順風満帆、事業は大成功する。自動車整備工場の方は、たまたま知り合いにアメリカ帰りの自動車修理工が居り、自然発生的に始まったものだと言う。1950年代末の当時は、クルマと言えばアメリカ車の時代だったから、こちらも大成功を収める。青木サンは運の強い人だったのだ(無論、運だけではそんな成功は及びもつかないだろうけれど)。

青木英夫さんAJAJ講話会 風景スケールの大きな趣味というものは、経済的な裏付けがあってこそ実現するものだ。要は、お金がなければ始まらないということ。そして青木サンにはこの裏付けが確実に存在していた。持って生まれた素封家の家筋と新しいことへの飽くなき探求心は、此処に来て大ブレークすることになる。まず、自動車運転免許の取得に始まり、航空機自家用操縦士免許(№1557)、滑空機(グライダー)自家用操縦士免許(№123)、航空級無線通信士免許(№130)、三等航空無線通信士免許(№1892)、潜水士免許(№70)などなど、青木サンが取得した免許や資格は十指に余る。変わったところでは元・A級ドライバー・ライセンス、PCAスカイダイビング・ライセンスなんていうものまである。いずれにしても、免許のナンバーが異例に若いことや種類の多さには驚かされる。それも、ただ取得したというのではなく、それぞれを思う存分楽しみ、すべてに対して一家言をお持ちなのだから、後輩である我々は恐れ入る他ない。さらに、これも最も青木サンらしいのだが、自分の体験談を話される時に、妙な気負いや殊更自慢するようなところがなく、飄々とストーリーが展開する。