KYBショックアブソーバー勉強会

開催日:2015年8月25日〜2015年8月26日
場 所:KYB工場テストコース

ダンディだ。萱場四郎(資郎)のことである。

15年8月。夏の盛りに岐阜県は美濃加茂市で開催されたKYBショックアブソーバ&ESP勉強会。配られた数々の資料のなかで、私の目を最も強く引きつけたのは、萱場発明研究所、後のKYB株式会社、を創った男の、一枚のポートレートだった。設立年は1919年。当時の四郎というと、なんとまだ弱冠21歳。もっとも、当時の二十歳が今と比べ物にならぬくらい大人であったことは、言うまでもないだろう。

今で言うところの、さしずめモノ造りベンチャー企業だ。四郎は独創性にあふれ、開発精神が旺盛で、そのうえリサーチ精神や先見性にも富んだ人物だったらしい。1935年に株式会社萱場製作所へと発展、日本の兵器産業にとってなくてはならない存在となっていく。

明治維新以降から先の大戦(大東亜戦争)にかけて、日本の殖産興業を支えたのは紛れもなく国家プロジェクトとしての軍事産業であった。萱場四郎は、ニューナンブ式銃にその名を残す南部麟次郎とともに、その中心人物だったと言っていい。なにしろ、彼の最大の功績であり、また現代のKYB社における技術的根源となる“緩衝装置技術”は、当時、無反動砲から戦闘機の車脚、カタパルト、オートジャイロに至るまで、多岐に渡って活用されていたのだから。

萱場四郎という興味の尽きない日本の先人を知るキッカケになっただけでも、私のKYB訪問は非常に有意義なものになったわけだが、一泊二日で行なわれた勉強見学体験会(本題だ)の方ももちろん、すばらしく濃密な内容で、発見と驚きの連続であったと報告しておきたい。

紙幅に限りがあるので、ここではプログラムのみを簡単に振り返っておこう。

KYBショックアブソーバー勉強会スライド初日がショックアブソーバ(以下SA)とESP&ポンプの座学、それぞれの工場ライン見学だった。“四郎さん”級に印象的だったのは、KYBのSAは鋼板を巻いてパイプを造るところから、ペイント、組立まで、一貫して自社で生産していること。EPSも同様で、ダイカストからケーシング、組立まで全てを自社で完結させている。

また、ラインの自動化率は意外にもSAで六割程度、EPSで四割程度となっており、そのぶん、大量生産と少量生産を上手く組み合わせることが可能で、多品種への対応やメーカー毎に異なるタイムリーな納入を実現している。

二日目。システム実験楝や電子実験楝、整備楝といった普段は滅多に見ることのできない開発現場の見学もさることながら、やはり“乗り屋”である会員たちを喜ばせたのは、自社テストコースにおける比較試乗会(SA、EPS)だ。

KYBショックアブソーバー勉強 試乗

既存のOEM製品や市販品はもちろんのこと、IDC(比例ソレノイド減衰力調整だった式)や、ハーモフレック+(周波数官能)、DLCコーティングピストンロッド採用といった“ただいま鋭意開発中”のSAを装備した車両(日頃馴染みのあるモデル)を試乗できたことは貴重な経験だった。豪雨に見舞われはしたものの……。

なかでも減衰力バルブ改良を施した某国産メーカーのFFハッチバック車の装着&非装着の比較テストは正に“目から鱗”。好き嫌いはあるにせよ、コストをさほど掛けずともライドフィールがこれほど良くなるとは!改めてクルマのアシというものは、メーカーとサプライヤーの“高いレベル志向”次第で、良くも悪くもなるものだ、ということを思い知る。

零戦を支えた脚が、その後も連綿と進化を続け、今や世界を走る全てのクルマのおよそ二割を支えるまでに至った。油圧から電制へ、EPS技術もまた未来を操る重要な柱の事業となっていくことだろう。“四郎精神”が息づくエンジニアリングの発展に、今後も大いに期待したい。

これ以上ないほどに充実した勉強会プログラムを企画・運営していただいたKYBスタッフの皆さまには、この場を借りて、そして参加者を代表して、改めて厚く御礼申し上げます。次は、相模原のKYB史料館ツアーを、ぜひ(笑)。

ありがとうございました。

KYBショックアブソーバー勉強 記念撮影
■参加者(敬称略、五十音順)
会田肇/飯田裕子/大谷達也/岡島裕二/加瀬幸長/桂伸一/日下部保雄/菰田 潔/斉藤聡/斉藤慎輔/鈴木直也/高山正寛/近田茂/津々見友彦/中川和昌/ 中村孝仁/西川淳/西村直人/松下宏/松田秀士/丸山誠/諸星陽一/山崎元裕/山田弘樹 ※当日欠席1名(松井孝晏)